四国遍路17日目 -岩本寺から金剛福寺まで-

金剛福寺までの道のりは結構長い。前回は岩本寺から金剛福寺まで、1日目。これは2日目である。

ー17日目ー

今日は宿から四万十川を少し超えた場所の野宿施設で一泊することを計画して歩き始めた。

朝8時に宿を出る。昨日の足の状態も考えて、少し短めにした。慣れというものは恐ろしいもので僅か数週間で割とみるものに新鮮感がなくなってきた。歩きが作業になってくると、この遍路で何を得ようというのか、何がしたくてここにきたのか、という重要な課題を思い出してしまう。うーん。。。

途中、道の駅ビオスおおがた、という大きめでめっちゃ綺麗な道の駅を見つけた。さらに、その先は森林浴に最適で、快適なサイクリングロードがあった。

写真撮り忘れた。失態だ。ずっと歩いて行くと、途中、これ本当に遍路道?という道?を見つけた。かき分けて進んだ。

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f:id:nhiroku:20241219182430j:image↑たまにこんな空と河川を眺めていると心が洗われる。

そのあと、なんやかんやですぐ今日の野宿スポットについてしまった。この小屋、グーグルなどの写真で見た通りめちゃくちゃ立派で思わず声が出てしまった!南無大師遍照金剛の文字の勇壮さよ。地元の企業が設置してくださっているようだ。

コンテナ内部には、机、椅子、果てにはコンセントまで善意で用意されており、非常にありがたかった。あらかた内部を観察し終わり、机でブログを書いていると、たまたま通りかかった社員の方が通りかかったので、色々お話しした。今後のルートとか、世間話とかである。

その時、山本玄峰さん、という偉大な僧侶さんについて教えていただいた。山本玄峰さんは、昭和天皇玉音放送で、今の歴史の教科書にものっている「忍び難きをしのび、耐え難きを耐え、」という最初の有名な一節にさえ影響を与えた偉大な僧侶だったそうだ。詳しくは、山本玄峰氏が、当時の内閣総理大臣宛に出した手紙の一文の冒頭がこのフレーズであり、昭和天皇玉音放送に影響を与えたと考えられているそうだ。唐突になぜこのような方の説明をされたのかわからなかったのだが、実はこの山本玄峰さんは若くして失明しながらも四国遍路に赴いており、7周したところで33番雪蹊寺の近くで行き倒れになられた。その時に救った方がこの付近出身だったそうだ。あとで、この人のことを調べてみると、失明状態であっただけでなく、経済的にも困窮していたため、裸足で四国遍路を7周したらしい。夏は石畳が暑くて耐えがたい、と言っていたが、耐えがたいでは済まされないだろう。僕がその立場だったら、当然靴を用意するまで働いて、準備を万全にしてから挑もうとするだろう。しかし、耐え難きを耐えてでも、四国遍路を7周をも周り抜き、行き倒れた先に運命がひらけていった玄峰様、準備を軽んずるべきではないのだろうが、僕は本当に耐え難きを耐え切ってきたのだろうか。今も、遍路に来る前も。わからない。

f:id:nhiroku:20241219182437j:image↑今日の野宿スポット

-今日の行程-

f:id:nhiroku:20241219182432j:image 歩いた距離 24.3km タイム 7時間20分